海の資源をめぐって 8

残念なことに、第一次海洋法会議は、いくつかの厄介な問題を残しました。


たとえば、この問題の発端となっていたはずの、領海の具体的な距離(幅)に関する取り決めは、まだ何も解決していませんでした。


3マイルに固執したままの国もあれば、4あるいは6マイルの国もあり、南米諸国は相変わらず、一方的に決めた200マイルだと言い張っていたのです。


その他のゾーンについても、まだ不確かなところがありました。


大陸棚という言葉自体の意味は、誰もがその概念に同意していたのですが、実際のところ、どこまでが大陸棚なのかというコンセンサスはありませんでした。


その後の会議で、大陸棚は「水深200メートルまでの、あるいはそれを超える場合、海床の自然資源を活用できる範囲内のスーパージェイセント(資源域)の深さまで」の沿岸と隣接している海床である、と説明されました。


いい換えれば、それは地質学上、ここで終わるという地点では終わらないものなのです。


かわりに、それは掘削技術がどこまで届くかということと関連しています。


それは、少々馬鹿げているようではあるが、競合する技術者たちにとっては、またとない意味づけとなりました。


それに、水深200メートルを超えて掘り進むことができるようになるまでには、まだ相当の年月を要したのです。

海の資源をめぐって 7

1958年2月から4月までの間、この協定案を検討し、国際法として形あるものにしようと、世界86か国の代表がジュネーブに会しました。


「国連海洋法会議」と呼ばれるようになるこの会合は、のちに「第一次」という言葉がつけ足されました。


会議が1回では終わらなかったからです。


その結果として、参加国は初めに受領したドラフトのまま、この4つの協定案を了承しました。


予測されたとおり、法律上の状況はだいぶ改善されました。


この協定では、まず管轄権の種類にさまざまなランクを設け、それらを施行するため、海を異なったゾーンに区分けしました。


たとえば、沿岸諸国は、ひき続き、領海内の管理に関して決定権があり、無害な航路の原則をふまえてさえいれば、取締りを厳しくできました。


隣接ゾーンでは、その沿岸国の漁船の取締りと同じように、入国審査や検疫を行うことができました。


大陸棚についての協定では、湾岸諸国は、トルーマンの声明どおり、大陸棚の資源に関する統治権を与えられました。


結果として残った公海は、海の自由の概念が適用され、共通ゾーンのまま保たれたのです。

海の資源をめぐって 6

そのほかにも、まだ解決されなければならない問題は多々ありました。


さいわい、ちょうどこの時期に設立されたばかりの国連が、国際法の成文化、とりわけ、海洋法の法的な不明確さの検討は、すばらしい挑戦になるとやる気満々でのり出しました。


これほど問題の整理整頓が必要とされ、また国際的協力によってしか解決できない問題はなく、状況としてはまさにうってつけだったのです。


検討に着手した常任委員会は、専門家を集め、海洋の法律上の体制についての条項の草稿をまとめるよう指示しました。


7年後、彼らは4項目から成る協定案を提出。


1つ目は公海の法的なステイタスについて。


2つ目は領海に焦点を絞ったもの。


3つ目は大陸棚について検証したもの。


そして最後は、漁業の海域についての範囲を提案したものでした。

海の資源をめぐって 5

しだいにどこの国でも、そうした海事的要求が高まり、より広大な取り分を望むようになりました。


まもなく、誰が何を所有するべきなのかという問題で混乱が起こったのです。


アメリカ国務省の地質学者ウィットモァー・ボグスは、次のように認めざるを得ませんでした。


「沿岸洋に対する各国の要求が、これほどまでに多種多様で、しかも気まぐれであったことはない」。


この混乱は、さまざまな問題を生み出しました。


それまで長い間、各国の領海をその国のものではない船舶が航行する場合、「無害な航路」をとるのが原則であり、どの国もそれを了解していました。


それは他国の船舶は、領海の「国の平和、命令、安全を侵さない」かぎり、その航路を通行する権利があるということでした。


そのため潜水艦は、潜水しての航海は「無ことは考えられないため、浮上し、旗を掲げて航行することを要求されました。


米ソ両国とも自国または他国の領海内で、相手の潜水艦が突然浮上するのは望まないでしょう。

海の資源をめぐって 4

この問題が解決するまでに、その後何年かかかりました。


問題は国内だけではありません。


トルーマンの声明から1か月後、メキシコは、アメリカの先例をふまえて、さらにもう1歩先に進むことを決めたのです。


その時発表された公布文によると、メキシコは、自国沿岸の大陸棚の管轄権だけではなく、そのスーパージェイセント、その上にある資源(法律用語で、その海域の魚介類をも含むという意味)まで含めた権利を要求しました。


この海域で漁をするアメリカ漁船は少なくなかったので、ワシントンとしてはこの決定を承認することはできず、なんとかメキシコ政府の意向を変えようと試みました。


しかし、もともとすべての事の発端を自らがつくり、自国の要望を通すために、新たなる「法律」までつくってしまった後で、アメリカが何をいっても、偽善者的にしか聞こえませんでした。


メキシコは、アメリカの要求を無視しました。


以後、メキシコの決定を侵したアメリカ船舶は、抑留され重い罰金を課せられました。


いずれにしろ、メキシコの要求はまもなく受け入れられました。


トルーマンの声明が、それまでの取り決めを改定するのに、またとないきっかけだと考えた南米諸国とカリブ海諸国は、海と海床に関する管轄権のみならず、統治権も含めて、範囲を沖合200マイルまで拡大し、結果として、その海域すべてを彼らの領海とすると言い始めます。


アルゼンチンが1946年、1年後にチリ、エクアドル、ペルーと続き、コスタリカが1948年に同様の要求を掲げ、1950年にエルサルバドルが続きました。

海の資源をめぐって 3

動機が何であったにせよ、トルーマンが発表した最初の声明文は、記念碑的な文書となりました。


振り返ってみると、それは、海を囲い込もうとする最初の1歩にほかならならないものでした。


そして、それは今日まで続いています。


しかし、当時はそれが理にかなっているように見えたのでした。


アメリカの動きに懸念を抱いた国もあったが、ほとんどの国はその考えに賛成したのです。


地質学的な面からいっても、大陸棚はたしかに大陸の一部を成しており、その資源がその沿岸の国のものとなるのは、合理的であるように思われました。


それに、いったい誰が、そこに何があるのかを知っているのでしょうか。


それでもなお、ワシントンでは、すぐにさまざまな問題が出てくる事態となりました。


その1つには、すでに以前から海上油井で石油を産出している、カリフォルニアやルイジアナといった州が、大陸棚が政府の管轄になるよりはむしろ、自分たちの管轄下におきたいと考えたことです。


海の資源をめぐって 2

これらの声明発表に先立ち、この文書は、発表後の対応・調整に備えて、あらかじめアメリカの同盟国や隣国の何か国かに回されました。


しかし、結果はたいして変わらなかったでしょう。


さまざまな議事録から明らかなことは、ワシントンは他国の干渉を、どちらにしろ許さなかったということです。


かわりに、この問題に関してのイニシアチブをとり、全世界に向けて、いかなる国際法も、一国がその沿海にある鉱物資源の所有を主張することを妨げることはできない、と告げたのでした。


それはむしろ、一国の責任者という立場で、こうした問題について主張した者が他に1人もいなかったことを考えると、国際法を逆手にとった主観的な解釈(いや解釈など皆目していないとさえいえる)でした。


しかしながら、またしてもここでいえるのは、アメリカ合衆国は第ニ次世界大戦終了時、他のどの国の追随も許さないパワーを持っていた国であったことです。


この問題に関するイニシアチブがとれたのは、そのためでした。

海の資源をめぐって

海底にしずむ石油という大きな資源をめぐって、当時のアメリカ大統領、ルーズベルトは国務長官や内務長官と水面下で話し合いを行っていました。


この非公式なやりとりは、やがて正式な議会での議題になり、3年後、ルーズベルトの後任者は、まさにある良識の一部を海洋法に適用させることをやってのけたのでした。


1945年9月28日付けの公式声明で、ハリー・トルーマン大統領は、アメリカ合衆国は、その大陸棚の資源と海底を管理および開発し、その範囲は基本的に、アメリカ独自の判断によるものであるという権利を有する、と述べました。


この声明のなかでは、漁業のことについても述べられています。


それは、アメリカ合衆国は、「ある特定の公海での漁業」を行う権利があるというものでしたが、その独占所有権については何も触れませんでした。


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面白かった場所 3

パリの近郊のグレー村でマリア・ビョーという健康美にあふれた少女のモデルを得て「読書」や「婦人図(厨房)」やデッサン「編物をする女」が描かれた。

二十七歳で帰国してからは、白馬会を結成したり、東京美術学校の教授となり、明治の末年には帝国美術院の院長に就任した。

五十四歳のとき貴族院議員となり、海外との文化交流にも尽した。
晩年の黒田は美術行政面で活躍しその間終生、美術学校の教授だった。

没後は遺言で一九二八年「黒田記念室」が設置され、美術研究所が設立された。

その後東京国立文化財研究所となり、現在は文化庁の所管となっている。

面白かった場所 2

黒田は、裸体を描いても健康的で良識的である。
この室には、一九〇〇年三十四歳の時にパリの万国博覧会に出品し、銀賞を受賞した「智・感・情」と名付けられた三部作の裸体画がある。

モデルは日本の若い女性で、明治の女性としては立派な体格をしている。
これは題名のことがらを人の姿によって表す「構想画」の作例であるといわれている。

黒田清輝(一八六六~一九二四)は鹿児島で生まれ、五歳の時、伯父黒田清綱子爵の養嗣子となる。

十八歳でフランスに留学し、法律を学ぶが中途で画学に転じて、外光派のラファエル・コランの指導をうける。
滞仏中はパリの近郊のグレー村で多くの作品を描いた。

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