通にはたまらない 2
東京美術学校騒動で都落ちした日本美術院の、五浦での生活は苦しいものであった。
大観や菱田春草などの朦朧派は画商もきらって寄りつかず、貧窮の生活だった。
しかし、五浦の海の風景やチャンポン(鉦鼓)のひびきは彼らをはげました。
鉦鼓とは、海岸のほこらに当たる波の音のことで、大観はその地を忘れまいとして客間にその名を付けた。
「大観は天才ではない。努力家だった」と、横山隆氏は言う。
「天才は菱田春草で、彼は二度と現れない才能の持ち主だった。春草が長生きしていてくれたら、ボクの絵はもっとうまくなっていただろう」
大観が口ぐせのように言っていた言葉である。
「大観は、朝は五時に起きて七時に朝食をとり、八時にはかならず二階の画室に入る。昼は食事に降りてくるだけで、夕方五時までは絵に専念していた」
隆氏は大観の孫に当たり、この記念館の常務理事である。
制作中はこの画室に何ぴとも入れなかった。
そして終生弟子をもたなかった。